フキキの部屋ルーム・サンバ

いつももたもたしている

「野性」とはなにか。

80日くらいブログを更新していなかったらしく、一番上に広告が表示されていた。このシステムは誰が考えたんだろう。利用してくんないんだった広告乗っけるからな!ということなのか?このSNS戦国時代に個人ブログやサイトってこの姿になりがちなのをよく目にするので目にすると物悲しい気持ちになる…。自分でもしてしまったけど。

 

ブログ向いてない感じがビシビシしますが、毎日あったことについて言葉にしていくことが大事なんだ…ということで本日の話題は「動物について」です。

 

先日、母との電話で知ることとなった訃報があった。親戚のうちで飼っていた鶏のぴーすけが亡くなったというもの。ぴーすけは元気な雄鶏で、親戚のうちの三女が小学生の時に学校でもらってきた卵を孵して生まれたんだったかな。本当に家族の一員のような鶏だった。

 

ぴーすけはとてものびのびと育てられていて、自由に庭と家の中を行き来してて、晴れた日には庭でサッカーボールで遊んだりしてた。

 

そしてそのうちにはもう一匹大きな犬がいた。名前は…なんだったかな~ド忘れしちゃった…。二匹はとても仲良しで、寄り添って一緒に寝たり、二匹でサッカーをしたりしてた。

 

私がとてもびっくりした話で、わんこがお尻のあたりにけがをした時膿んだ傷に虫が湧きそうだったのを、気づいたぴーすけがつついて食べたりして傷が悪化することなく無事治療できたということがあった。それはただ単に虫を食べてるだけであって結果論に過ぎないっちゃ過ぎないんだけど、やはりぴーすけとわんこの間には私たちには計り知れぬ信頼関係のようなものがあった。

 

そんな二匹も、わんこがしばらく前に亡くなってしまいお別れとなった。ぴーすけはしばらくの間わんこを探して鳴いて、荒れるように暴れて、数日間ののちもういないことを理解したのか大人しくなったとのことだった。

 

ぴーすけがわんこが死んで悲しかったかを本鳥に聞いたわけではないのでぴーすけの考えていることはぴーすけにしかわからないけど、私はその話を聞いて私たちが普段見ている「動物」って何だろうと思った。

 

よくどの動物が賢いだの、○○は人間のようにこんなこと考えているだの言われていたりするが、私はあまりそういうのはよくわからない。「賢い」とはなんだ?というのもあるし、他の動物に人間の基準を押し付けるんじゃないよとも思うからだ。

 

一見共存しなさそうな二匹が共存していたり、まるで人間の言葉を理解したような行動をとっていると「まぁこの動物は珍しい、賢い」と思いがちだが、私たちが見ていない世界はものすごく広い。

 

ただ、一方で「生物学的には~~」とか「野性的」みたいな言葉や使われ方にも???となることがある。

 

「擬人化」という言葉がある。人間でないものを人間に見立てて表現することだ。また逆に「動物的」という言葉は、人間らしい心がなく動物のように本能で動くさま、といった意味で使われている。でもこれってなんか変じゃないだろうか。動物には動物の世界があり、生き方がある。そんな人間基準で言われても。

 

そしてまぁ私は生物学に詳しいわけじゃないけど、自然界だって性は多様だし、弱い個体が淘汰されることばかりじゃない。人間から見て「生きるのに必要なことだけ」考えて、行動して生きているわけでもない…と思う。NHK地球ドラマチックで一番最後に巣立って群れからもはぐれていた小さいペンギンがゆくゆく一番最初に海に飛び込むファーストペンギンになる様とかをみるたびに私は「なんて地球って素のままでドラマチックなの!?」と大泣きしている。

 

それを人間的、動物的だなんて勝手な言葉じゃない?

 

母が最近読んだ絵本によると、誰かのペットだった動物は虹のたもとで家族が来るのを待ってるらしい。それもまぁ人間中心主義っぽい考え方だなとは思ったが、ぴーすけとわんこが虹のたもとで再会して一緒にサッカーをしてればいいなと思う。

 

カフェ・オ・レ・オレ詐欺

 

今わたしはアーツ前橋のミュージアムショップ、minaで店番をしながら、大きな窓から目の前の前橋中央交番を眺めている。

 

なんせアーツの壁は全面ガラス張りなので外の様子が大画面で目に入る。交番の戸棚に上に赤いだるまが二体ゴロリ、としているのも見える。交番の戸口にはものすごく低い位置で大きな日本国旗がはためいている。なんであんなに低い位置なんだろう。絶対歩いている人がふわっとくるまれちゃうよなぁ。それかばさっと顔に浴びちゃうよ。

 

この交番、まちなかにわんさかあった交番をいくつかにまとめた中の一つらしい。サーモンピンクのちょっと古めいた建物だが、建物の真ん中にはキラキラの電光掲示板?がはっつけてあり、消防士の服みたいなオレンジの文字が絶えず流れている。振り込め詐欺にはご注意を!道路を横断するときは明るい服装で渡りましょう。重要指名手配犯…。~ちゃんを探しています。薬物は君の…(急に馴れ馴れしい)ダメゼッタイ薬物乱用!新手のオレオレ詐欺にご注意を!この文字の流れの速さは誰が決めるんだろう。歩みの速さよりちょっと早いくらい。右から左に文字が流れていく周りを魚みたいにキラキラがぐるぐると囲んで回っている。忙しいな。

 

いま新手のオレオレ詐欺…という文字が流れていった。この字面を久々に目にするとなんだか可愛く感じる。オレオレってとこ。後ろにさとぎがくっついてるところとかも。オレオレサギ。ちょうどMinaの隣のロブソンコーヒーでカフェオレを買って飲んでいたので、カフェオレ詐欺ってのもいいなぁと思った。調べたらyahoo知恵袋がいっちゃん頭に出てきてがっかりした。なんだ自分が思いついたと思ったのに、というのではなく、yahoo知恵袋に書くんかい、というところ。思いついたら紙にでも書き留めるくらいがいいよねぇ。

 

抹茶オレ詐欺だとあんま悪くなさそう。いちごオレ詐欺、バナナオレ詐欺…。やっぱカフェオレが一番しっくりくるな~。おさまりがいいね、おさまりが。そんなことを考えていたらカフェオレの氷は気づいたら溶けていて、層になっている。味噌汁も置いておくとこうなる。

 

あっというまにあたりはとっぷりと暗くなっていた。いつ夜が来たんだろう。知らないあいだに来てる。

 

あ~~~オレオレブギ。

モウソウジin南橘団地

去る2016年12月19日(土)、前橋にある南橘団地にてワークショップ「モウソウジ」を行った。このワークショップは、まちに落ちている一見ゴミと呼ばれるものに秘められた物語をみんなで妄想してみるというもの。私たちが普段何気なく過ごす場所に落ちているものは一体どこからきたのか。誰が捨てたのか、そもそもどこからゴミなのか?
 私が初めて南橘団地を訪れたのは今年の夏。アーツ前橋での展覧会「表現の森」の中でのアーティスト中島佑太さんによるワークショッププロジェクト「LDKツーリスト」の存在を知り、団地を歩くうちに趣味であるゴミ観察をじっくりやってみたいと思いこのワークショップをすることになった。
 
LDKツーリストは、団地という場所の特性を見つめるなかで、ずらりと連なって見えるような住環境の中に存在する「境界線」や「他者の視線」そして美術館と団地、団地からまだ見るどこか…といった「移動」がテーマになっている。
 
この日、集合場所の南橘公民館に集まったのは子どもや大学生など合わせて8名。残念ながら南橘団地の住民の参加はなかった。次の日が団地全体でも清掃の日だったというのもあり、「掃除なら明日もするしなぁ…」というところだろうか??と想像したり。生憎の朝からの雨で、私が雲行きを心配しているうちに子どもたちにより「学校ごっこ」(子どもたちが先生)が自然に始まっており、その流れの中でモウソウジは「掃除の時間」として幕を開けた。
 チームふきこ、チームなかじの二つのチームに分かれ、それぞれが手分けして軍手、ゴミ袋、トング、カメラなどを持っていざ団地へ出発。見つけたゴミを拾っていく中でこれはとっておき!というものを見つけたら一人一人に配った小さな袋に入れてとっておいて最後にみんなで妄想展覧会をする。
 何も落ちてなかったらどうしよう…という私の不安をよそに、開始5分もたたないうちに団地の入り口に折り紙のワッペン飾りがついた箱ティッシュ(ずぶぬれ)を発見。それを皮切りに、黒ヒゲ危機一髪(剣が数本刺さっていて黒ひげは不在)・お手玉・クワガタのフィギュアが茂みからまとめて出てきたときはこの謎のおもちゃスポットは一体なんだ?秘密基地?とざわざわ。また、参加者の中にサックスを吹く学生がおり、落ちていたただの木片と思われていたものがサックスのリードだと判明したり。みんな宝探しのように歩いているうちに熱が入ってきて、「ここにもあるよ~!」と男の子が先頭を走っていけば「こっちにトング持ってきて!!!」と後ろでそのお姉ちゃんが叫ぶ。みんな茂みをかき分けたり色んな所をのぞいてみたりと団地の中を駆けていた。
 
 
 
【犬の足跡と猫の死体】
今回とても印象的だったことが二つある。
 一つはある男の子がモウソウジをする中で、ふと立ち止まって「これ犬の足跡じゃない!?」と道路の白いシミを辿ったり、塀の側面に均等に空いているくぼみの空間がある所から赤くなっていて、それは向こう側にある建物の色と光の反射によってそうなっていることに気づいたりということだ。何が落ちているかな、と思いながらまちを歩くと、おのずと姿勢や視線がいつもと変わる。今まで目印にしていた施設、看板などからなにげないゴミがランドマークになる。それがいつもの住み慣れたまちの歩きなれている道でも視点が変わることによって、いつもは見えなかったものが見えてくる。そしてそれを共有することによって、隣にいる人でも見ているもの、捉え方、何をゴミとするかといった価値観が違うことに気づく。
 
もうひとつは、私とは別のチームだったが団地の中で「猫の死体」を見つけたことだ。
団地というのは、建物とその前にある道の間にすこしスペースがある。それはオープンな庭のような、プライベートな庭でないような空間であり、私はいつもそこを意識して歩くたびに見えない境界線のようなものを感じる。
 モウソウジのチラシがある!とこどもがその空間に踏み入れていったところ、その猫は横たわっていた。その近くには餌だったかもしれないものなどが転がっていた。猫はそこで亡くなったのか、そこに置かれたのか、私たちでは計り知れない。ただ、「ゴミ拾い」という一見奉仕活動的で地域になじみやすいだろうと考えていた行為が突然「みんなが見ないようにしているものを外からきて掘り返していく」行為のように思えてしまった。これだって妄想かもしれないが、時折感じる住民からの視線を思い出す。
 
【妄想ってなんだろう?】
 こんな感じでゴミ探しがヒートアップしたり衝撃的なものと出会ったりと色々あったが、課題として思ったことは、やる以前は簡単に言っていたが「妄想する」とは難しいということだ。改めて自分自身で設定した「妄想」とは何かということについて考えさせられた。団地という生活空間の中で、たまたま衝撃的な落とし物をいくつか見つけたといってもほとんどは身近にあるリアルなゴミが落ちている。そうなるとどうしても「推測」になりがちだ。答えを探求してしまう。しかも雨が降った後である。拾うのに躊躇する場合もあれば、興味をもって妄想を広げていくことはなかなかに難しい。そしてこれはモウソウジの設定自体というか、ファシリテーションの課題でもある。ただ「ゴミを見つけて拾って妄想してください。」といっても、使う道具も設定もみんなの知っている「ゴミ拾い」になってしまう。何のために「妄想」するのか、という向こう側があれば広がっていくのかもしれない。
 
【団地でモウソウジをするということ】
モウソウジをするにあたりチラシ配りやリサーチに行った際、団地を掃除している女性にあった。団地の中の掃除は棟ごとで行われ、みんなで月一で掃除をする日が決められている。しかし話を聞くと高齢化で出てこれなくなったり、月一で全員でやらなくても別の日に個別にやって置いておくというシステムもあるらしく、必ず定期的にみんなが顔を合わせ何かを一緒にするという環境でもないようだ。また、団地のエリアごとでもゴミの数などの違いは目に見えて感じる。現在団地の中で掃除がどのように機能しているのだろうか。今回は団地の住民とは一緒に掃除をすることはできなかったが、今後こうしたワークショップを通して住民の人々とも交流が生まれればよいなと思った。
 
日常の中で当たり前となっている掃除という行為、目をそらされてきたゴミという存在に「ゴミを妄想するワークショップ」というフィルターを通して目を向けるには、まだまだ改良や実験を重ねる余地があると実感した一日だったが、なんでこれがここに?と感じた時の気持ちがその場所を離れ遠くへ飛んでいく感覚、見過ごしていたものに目を向ける感覚を感じることができればと思う。それをここ南橘団地でやるとはどういうことか、自分に問いかける一日になった。
 

愛はシンプルなゴーヤチャンプルー。

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自炊が出来ない。

なかなかうまくいかないこと、「継続すること」以外にもうひとつあった。料理が出来ない。

スーパーで毎回意気揚々と買い込んでも、家帰ってきたら冷蔵庫に仕舞うのすらめんどくさくなってくる始末。

先日自炊するべくスーパーに行って、ゴーヤチャンプルーを作ろうと思い立った。で、帰り道。ハンバーグ、カレー、ファーストフードの看板と匂いが自転車を走らす私の目と鼻の先をめまぐるしく通りすぎていく。はじめは我慢してたけど、持ち前の衝動性の強さも相まってタルタルとり天うどんのことで頭が一杯になる私。

結局タルタルとり天うどんのことを考えながらゴーヤチャンプルーを作りました。

でも不味いんだなぁそれが。乳くさい。油が足りなくてバターを使ったせいか、豆腐が豆乳入りのとろとろのやつだったせいか、みりんを入れたせいか…?私の作った野菜炒め、美味しかったことがない。

野菜炒めもカレーもゴーヤチャンプルーも、シンプルがいちばん。

料理って生きていく上でとても大切なんだなと改めて思うことがある。食べなきゃ死んじゃうとかは置いといて、献立を考えて、切ったり煮たりして、何品かを同時に作る。頭を使いながら手を動かすこと。

美術をやってて思うのが、「あたま」と「からだ」と「こころ」をつなげるというのが大切ということ。頭で考えてるだけじゃダメで、手を動かすだけでもダメ。それを心で繋げて、ひとつの物事として作り上げていく。

料理もそれに似てるなと思った。




冷蔵庫にはまだまだたくさんの乳くさいふきこチャンプルー。

タルタルとり天うどん食べたいなぁ。

鶏つけ麺は出汁が魚介だったのでやめた。

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ツクヅク、人生の選択が下手くそだなと思うときがある。

バイトでこどもたちにブロック遊びの案内をし、ヘトヘトなんだけどなんとなくスズランでハラダのラスクを買って帰ろうと思うも、なんとなく止めて8階でやってたチームラボの展示に行き、夏休み中で唸りをあげるこどもたちに辟易として、なんとなくそのままひたすら歩いて、そうだ、つけ麺食べようと思いラーメン屋に行き、何故か鶏白湯麺を食べて胃を重くしている今この時である。

そしてその都度粘度の高い後悔をするのでツラい。

昔からものすごく後悔が多い。反省は不得意。行かなきゃよかった、食べなきゃよかった、買わなきゃよかった…言いすぎて「思ってもいいけど言わないでくれる!?」と姉がキレたことがある。


レストランでは大抵ギリギリに食べたいものが変わる。というか第一印象でパスタ美味しそうだしパスタにするぞ、と決めても店員さんがやって来た瞬間ピーン!ときてグラタンにする。そんな勘は大抵外れる。やっぱ思った通りパスタのがうまいやないかい。

自分は能動的生き物っぽいのにつくづく勘が働かない。

…と思ってたけど、もしかして私はラスク!と思ってラスクを買って、歩こ!と思い歩いて、つけ麺!と思ったままつけ麺を食べてれば結構いい線いってたのかもしれない。

いつだって直感にはあまり従ってこなかった気がする。優柔不断だし。こんなところでは不断!!もっと違うところで不断したいのよ。

でも最初に選んだ魚介のクリームパスタ、すごい美味しかったもん。


お母さんと、あと私の懐いていたおじさんに全く同じことを言われたことがある。

「人の直感は大体当たってるよ」

脳内でモーニング娘。の隠れた迷曲「直感2~逃がした魚は大きいぞ~」が流れだし、ラーメン屋のジャズ風BGMと混ざってなんとも言えないサタデーナイトですわ。

このまま歩いて帰ろうか、バスに乗ろうか。また迷ってる。

第一印象で決めてました。と言えるようになりたい。

るなてぃっく乙女

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今夜はとても月がキレイでした。

アルバイト帰り、月を見ながら夜の遊園地でビールを飲む。

前橋にある古い遊園地るなぱあく。このるなは月のるななんだろうか。ここのメリーゴーランドが好き。

何かの本に満月は破滅の象徴で恋人と見ちゃいけないみたいなことかいてあったけど本当かな。生憎いないからよかった。生憎…?

るなぱあくにいるのに薄暗い隅の石に腰かけて、ビールをのみながら世知辛いようなそうでもないような話をした。

歳をとれば自然と出来ないことが出来るようになって、雑誌に載ってる読モの劣化コピーくらいには身なりに気を使えて、なんとなく恋人ができるのかと思ってたけどそんなこと全然無いなっていう。

やっぱ不断の努力がいるよね。…不断。不断といえば、今は12時回ってるので、2日目にしてブログ毎日更新成らずか?

不断のってついてる時点で嫌な予感がする。

合コンしたいっすよね、一夫多妻制アイドル羨ましいっすよね、フキキは本心からそう言っているがそれはいつもその日が終われば絶えて、また次口にする前に新たに生まれている。

何かを決意しスタートするには新月がいいらしい。完了の時である満月に、いくら新たなお願いをしても意味無いんだって。

さっき調べて知ったけど、無意識にそういう行動をとっている自分とは…。やはりそういうツキの元に生まれたのかしら~。

OISO LONG ▲EACH

 

東京から終点の前橋を目指して夜ひた走る通勤快速。携帯は暗いまま構ってくれず、二時間ひたすら車内のつり革広告をぼんやりと見つめる。「OISO LONG BEACH」。Bのところに揺れる三角のつり革がかぶる。ひとり大喜利を始めるが「PEACH」くらいしか思いつかない。座布団はもらえず、固いシートに深く座りなおす。

 

フキキa.k.a真夏に外に出られない女です。

 

a.k.aって「also known as~」の略らしい。「人呼んで」みたいな。ラッパーとかが使ってんだろうか?愉快な異名を毎日ひねり出していこう。

 

何事も全く継続できないので、ブログを始めることにした。「日課」と呼べるものをつくるべく、毎日更新めざします。

 

ブログっていいな。昔は某JUGEMでブログをしたり、小説を書いたりとブログとは仲良しだったはずなのに気づけばFBやツイッター。今も私のブログやMixiは電子の海を漂流しているのか。探して読みたいけどタイトルが思い出せない。あのまま抱えて持っていれば今頃私を形成する大事なものになっていたのかもなぁというものまで流してしまった気がする。

 

FBやTwitterも楽しいけど、人の目を意識しすぎてなんか重くなってきた。メタ認知を司るメタフキキは都合の悪い時には全然出てこないのに、それ気にせんでええやろ、みたいな時ばかりに出てくる。だから結果何も気にしてないことになる。背後で大火事が起きてるんだけど手元のろうそくがほかに燃え移らないか気にしてるみたいな感じ。

 

…とまぁ、Twitterは短すぎるのでだらだらと言い訳したい私にはあまり向いていないかもしれない。あと社会の出来事との距離感が狂ってきたのもあるのでいったん落ち着こうという目論見です。

 

日記も続かなかったのに続くかな。

 

ちなみにオーイソロングビーチ大喜利ですが、高崎くらいから「オーイソロングマーチ」「オーイソテングビーチ」等が生まれました。帰って調べたらなんかTHEレジャー施設といった風体で勝手にがっかりした。OISOってなんだよ。なんでローマ字なんだ。